わかさんの小部屋

 

わかさんの裏千家新潟支部月釜当番(わかさん支部初陣茶会)

平成20年 1月24日 天気 強風・雪

去る1月24日、わかさんこと石川宗嗣が支部の月釜を掛けさせて頂きました。

お話を頂いた時は「若輩なのに・・・」と無理だろ?みたいな気持ちで一度は辞退しましたが、重ねてお願いされて、「僕も30歳。30にして立つ、という格言があるので・・・・」と受諾しました。

が、それから大変な事といったらもう!!(笑)

周りにノウハウがある方が居ないので、わかさん、若奥さんとで頭を捻り、無い知恵を絞って・・・。日が近づくに連れて胸のドキドキが止まらない、そんな毎日でした。

心配だった天気はわかさんの日頃の行いが非常に良いのか、強風&雪!!遠くの方は電車が止まり参会出来ないという、非常に残念な天気になりました。

そんな天候の中でも諸先生方をはじめ、友人等170名の喫客を迎える事が出来、非常に嬉しかったです。

さて、席は正客に座られた先生の軽妙なお話や、思い出話が聞く事が出来てとても楽しく、勉強させて頂きながらの席の連続でした。わかさん自身、家のイベントや展示会での席でお客様とお話をしておりますが、こういった流儀の席での席主は初めてですので非常に緊張しましたが、先生方のお陰で楽しく進めさせて頂きました。

また、裏方として手伝ってくださった先生方、友人皆様、お弟子さん、皆様に非常に感謝感謝です。

今回の経験は非常に得難い経験で、この様な経験を30歳で出来たことに非常に感謝しております。

これからも日々精進、と胸に誓った僕でした。

会記は以下の通り。

床   春光 日々新    鵬雲斎大宗匠筆

花   雲龍椿 やしゃぶし

花入  竹一重切 銘・好日 大亀老師在判箱

香合  福槌        九代 長左衛門

 敷  大宗匠御好み 鳳凰青海波  友湖

風炉先 利休梅

釜   淡々斎好 海老耳平     正直

炉縁  七宝            輪島

長板  黒

皆具  瓔珞紋           利昇

火箸  坐忘斎御好み 括り猿   清右衛門

棗   玄々斎好み 曙棗  大宗匠在判箱 表完

茶杓  鵬雲斎大宗匠作  銘・瑞雲

茶碗  黒 隅田川焼 銘・常盤 鵬雲斎大宗匠箱

 替  青磁シノギ手  銘・大雅  森岡嘉祥造

煙草盆 鵬雲斎大宗匠好み 瓢透 大宗匠在判箱  玉栄

火入  口四方           空味

菓子器 縁高

菓子  あらたま           金巻屋製

 

 

わかさんの愛碗  井戸茶碗 銘・閑坐

妻と一緒に05年3月に京都へ行った際に良く行く店の店先で発見し、入手しました。

裸で入手しましたので、箱、包み裂と誂え、その年の夏、陶磁研究家の林屋晴三先生に

お会い出来る機会がありましたので、鑑定をお願いした所、

「君には過ぎたる茶碗。猫に小判だ。」とお褒め(?)の言葉を頂きました。

その際に先生より、箱書、銘を頂きました。

ido.JPG (18472 バイト)koudai.JPG (19607 バイト)

お茶をはじめた当初はそんなに魅力を感じませんでしたが、5〜6年して井戸茶碗は何故か好きになってしまった茶碗で、気が付いたらその魅力にどっぷりはまってしまいました。

でも、その魅力はどんなに言葉にしても伝えられないですね・・・。

 

林屋先生の著書に井戸茶碗の魅力が書かれておりましたので、転載させていただきます。

いつの頃からいわれたのかつまびらかではないが、一 井戸、二 楽、三 唐津という言葉がある。これは茶碗のもつ本質的な位を、このような序列に置いたものであるらしい。耳にすると、極めて単純な表現であるが、さまざまな種類の数多くの茶碗を手にして味わってみると、この序列がまことによく茶碗というものを知った上でのものであることがうなずける。高麗茶碗の代表作である井戸茶碗を一とし、和物の代表作である楽を二とする。三の唐津は、人によってさまざまに置き換えられることがあろう。人によっては三に志野がくるかもしれない。だが井戸を知り、楽を知った人ならば、一井戸、二楽はまずまず動くまいと思うのである。
 まず、井戸と楽の茶碗としての本質についてふれてみると、井戸茶碗は、侘と寂の美意識をもたぬ、李朝初期の名も知れぬ陶工の手になった物であり、それを侘と寂の意識を持つ茶人がとりあげたものである。対して長次郎の茶碗は、千利休という侘の美を深く心の中に味わった人の好みになる茶碗である。これをいずれも美しいというならば、一つは無意識の中に生まれた美、いま一つは意識の中で育った美という、二つの両極にあるものの美を同じように認識したということになり、そしてなおかつ一井戸、二楽としたものでここに侘と寂の美意識の本質がうかがわれる。
 井戸は、高台に重心をおいて碗形(わんなり)にゆるやかに広がってゆく。だがその広がりはいつも内へ内へと力を向けながら伸びてゆく。この内へ向かう力と、外へ伸びてゆこうとする力とが、たえず均衡の限界を保ちながら広がってゆくところに、井戸茶碗のもつ魅力的な力強さがうまれるのである。それは筒井筒に最も強く、細川井戸にぎりぎりいっぱいのものを感じる。このような広がりの力強さはロクロを使わない長次郎の茶碗にはまったくない。
 だが、次ぎにたなごころやくちびるに感じる触覚では、井戸は楽にゆずらねばならぬ。楽の最大のよさは、そのやわらかい触覚的な味わいにあり、さすが利休が求めたものと思うのである。
 最後に色感にうったえるものはどうであろうか。枇杷色といわれる貫入のある釉の変化、カイラギの味わい、これは井戸茶碗の姿にまことによく調和したものである。だが黒楽茶碗のしっとりとした釉色も、あの姿にはよく調和している。茶室の中にあって、両者とも、いづれも甲乙つけがたい味わいをもっている。
 結局、侘と寂の心は、それが無技巧のものであっても優れた作品で、こちらが侘と寂の意識で感情の移入をしたときに、技巧をきわめて自然に帰ったものがもつ以上の味わいを示すならば、最も大きな感動を示すのではないだろうか。井戸をふくめた、文禄・慶長の役以前の高麗茶碗には、大なり小なり素朴な姿のうちにそうした美がうかがわれるのである。
                           (「高麗茶碗」 林屋晴三著 平凡社 より)

 

 

 

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